先輩の葬儀が終わった。たくさんの人と、たくさんの花。少しは現実を受け入れることができるのかと思いきや、寂しさと悔しさと悲しさがこみあげてくる。全く受け入れることができず、心には大きな穴が開いたまま。これは平賀淳のお葬式?本当に寝ているようで、生きている感じがした。たぶん生きてんじゃないか。ずっと生き続けるなこれは。寝ている姿からもすごい平賀淳魂を感じた。葬儀の際に幼馴染の小林元喜さんら3名の方が弔辞を読まれた。みんな口にそろえて言うことは先輩の優しさ、努力家、丁寧さ、人懐こさ、唯一無二の存在、そしてどじした話だ。それですべてのように感じる。なぜなら平賀淳はみんなに対してそういう存在だから。平等な男だから。先輩が一番好きだったのは、素晴らしい景色よりも、「人」だったんだと思う。そんなことを改めて実感した。

以下に記することは、僕がみたまんまの平賀淳で、もちろん他の人が見る彼となんら変わりないだろうが、平賀淳との思い出に浸りたいという自己欲求でもあり、少しだけ書かせてもらいます。

卒業後

高校を卒業していった先輩は、日本映画学校へ。一人でもガンガン走っているようだった。翌年、僕も高校を卒業して長野の大学へ行くわけだけど、今度は国体成年チームとして再び合流。目標があれば一人でも追い込む。僕も先輩の真似をして松本でトレーニングに力を入れた。一人でもがんばった。しかし、先輩はさらに上を行った。なんと休学して、アドベンチャーレースで国内屈指の「イーストウインド」に入り、 国内にとどまることなく 南米で開催の「レイドゴロワーズ」という超過激なアドベンチャーレースに参加することになった。馬に乗ったりカヤックをしたり高所登山をしたり、、、僕はモーグルでオリンピックに出場したいからに大学に行ったのだけど、実際、海外なんて当時はあまり考えたことなかったので、純粋に「すげ~な~海外か、、、」と、同時になんだかだいぶ離されて少し置いて行かれた気持ちになった。

かながわ夢国体、ボッカ駅伝の会場でもある丹沢の登山口大倉にて
ここは青春時代の思い出の地です
どんぐり山荘にお世話になっていました

会う時はいつでも、「おれはエベレストに行く」と言っていた。ブレてない。

離れていても切磋琢磨

2007年、ついにずっと公言していた「エベレスト登頂」を果たす。登山家の野口健さんのカメラマンとして、普通に登るではなくて、カメラを回しながら。この時は、地元紙にも大きく紹介され、みんなで「淳、本当にやったんだ、、、」って驚いたのを思い出す。1997年高校を卒業して10年。先輩の背中がさらに遠くなる。

僕も負けじと、国内で日本山岳耐久レース71.5㎞「ハセツネ」、当時は国内最高峰と言われていたレースにチャレンジし続ける。そして先輩のエベレスト登頂の翌年2008年、優勝した。狙っていたわけではないけど、たまたま当時の大会新記録だった。ゴール後すぐに先輩に電話した。「優勝しました」と。別の撮影をしていた先輩は驚いた様子で喜んでくれた。あきる野市五日市会館のトイレでの電話、今でも忘れない。まず先輩に知らせたかった。少しでも追いついてやりたい、という無意識の行動かもしれないな。

その後もテレビで「平賀淳」の名前を見ることが多くなる。最近は、ドローン操者の第一人者として先輩が紹介されることも。芸能人を撮影することも多く、芸能人に対してミーハーな僕としては実はとてもうらやましかったのです。野口さんとの活動が多かったと思うのだけど、よく話をしてくれた。相変わらずふざけた話も多く、世界の秘境でもばかやりながら全力で仕事してるなぁとうらやましかった。温暖化の視点から、氷河湖の撮影など新聞にも取り上げられていた。一番記憶に新しいのは田中陽希さんのグレートトラバースかな。100座、200座、301座で7年間撮影を担当した。いわゆる「すごい人」になっていた。いつもそういう話を聞くたびに、追いつかなきゃ、と心のどこかにそういうのがあった。

世界と韮崎

僕は、打倒平賀淳、という気持ちも常に持ち続けていたので、やっぱり完全に離されている感が強くなっていった。純粋に、「先輩がんばってんなー」と。今までのライバルというより、リスペクトという方向に自分の意識が変わっていた。世界中の秘境を飛び回る先輩をみて、もう俺は相手してもらえないのかな、なんて少し寂しくなったりしたこともある。けれど先輩は、世界や国内を飛び回りつつも必ず地元の山岳部の仲間にも連絡をくれる。 最近ではグレートトラバース終わった時「7年の取材の旅がようやく終わりました。また山梨の山でもよろしくお願いします!」と。外も内もいつも大事にする人。 日本にいる時間も短いだろうに、地元に帰ってきて、甲府盆地の周りの山々とその麓の街をつなぐ、「甲斐国ロングトレイル」の調査にも精力的に取り組んでいた。

あるとき、地元韮崎市の茅が岳でトレーニングを終えて、車で家に帰っているときに、リュックサックを背負い、ひげをはやしよく日焼けしたハイカーが歩道を歩いている。腰にはウエストポーチ。それを見て、もしやと思った。「先輩なにしてるの!?」ってね。この人の動きはやばいなとこの時改めて感じたのと、同時にとても安心した瞬間でもあった。世界も地元もみんな大事にする。僕はまだまだできていないけど、真似したい大きく影響を受けたことの一つ。時間を見つけては「甲斐国ロングトレイル」をつなげるために自分の足で歩いていたのだ。

アンドラ

2013年フランスとスペインに挟まれた小さな国、アンドラに一緒に行った。これはテレビ番組の「情熱大陸」の撮影のためだ。実は高校卒業して以来、撮ってもらうのは初めてだったかな。

アンドラの山奥で韮崎高校山岳部OB組
©fujimaki sho

このレースではスタートして35㎞地点で膝がすごく痛くなり、ストレッチをしながら走る、という苦しい展開だった。そこにいたのが平賀淳カメラマン。僕たちは普段はどうしようもない会話ばかりなのだけど、この時先輩は無言でずっと追いかけてきていた。3分走り、止まってはストレッチする僕をうなずきながら無言で撮影している。高校時代全力の姿をいつも背中で見せられていた。今回は後ろから見守られている。先輩が、被写体と撮影側の気持ちの距離を保とうとしているのが分かった。しかし先輩の心の応援は届いてしまっていたよ。いつだって温かいそういう人だからね。

100㎞を過ぎたあたりで、夜になった。夜の区間は世界遺産にもなっているクラロ渓谷。ここは山あり湿原あり川あり、かなりアドベンチャーな感じで、膝の痛みに慣れて、少しノッていた。夜中の走りを先輩が撮影することになっていた。しかし一向に先輩の姿は見えない。そしてあるはずのチェックポイントも見当たらない。知らぬ間にもう朝方になり次のチェックポイント近くまで来てしまった。別のカメラマンからエイドをひとつとばしてしまったということを告げられる。その瞬間、「やっちまった!」と絶望する。道を間違えたか。次のエイドにも先輩はいない。そしてさらにその次のエイド。平賀淳カメラマンがいた。僕の背中をポンポンとたたき、「大丈夫だ、大丈夫だ」と言ってくれる。妙に落ち着くことができた。

先輩「気にすんな、ゴールまでいけるぞ」
©fujimaki sho

先輩はどうしていなかったのか?あとで知ったことだか、小屋の中で焚火を撮影していた隙に、僕が行ってしまったようだ。使い道のない焚火の画を、、、、。(笑)そして僕が行ってしまったのに気づき、あわてて小屋を飛び出し、エイドでチェックを受けていない僕に対して、「けんいち~!もどれ~!」と何度も大声で叫びながら追いかけてきていたらしい。確かに何か後ろで騒ぎ声がきこえるな~って思っていた。どうしても笑ってしまうよね。結果、持っていたGPSの軌跡でしっかり通過していることが確認できたのでなんの問題もなかったのだけど。

途中幻覚など見ながら、ゴールは30時間を超えた。初めての経験だった。

©fujimaki sho

先輩も僕のゴールを喜んでくれているようだった。「よくやった!」ってね。

大好きな写真のひとつ。みんないい顔すぎ!

余談だが、膝の痛みは走っているときは気にならなくなっていたけど、終わったとたんにまた痛み出した。しかしこの時一番痛かったのは、間違いなく、世界のカメラマン、ショーフジマキであろう。最後のピークで撮影し、ゴールに帰るまでに飛ばしすぎて足首を派手に捻ったらしい。帰国するとき一番足を引きずっていたのは間違いなく、藤巻カメラマンだ。とにかく思い出深い遠征だった。彼も平賀淳と深い絆で結ばれた仲間。

レユニオン

翌年2014年は、南インド洋に浮かぶフランス領のレユニオン島に遠征した。この年は、アスリートの魂、という番組の撮影も兼ねていた。もちろん平賀淳カメラマンもメンバーの一人だ。この年は事前準備から先輩が撮影してくれて、夏に北アルプスへも一緒に行った。ベースキャンプとした湯股温泉では久しぶりに一緒にキャンプを楽しんだ。最高の時間。

北アルプス裏銀座にて単独の強化トレーニング
先輩は夜中のうちにテント場を出て、稜線で待ち構えていました

こちらのレースでもハプニングがあった。スタートして2つ目のエイドでいるはずの仲間がいない。そのとき撮影をしていたのが先輩だった。レユニオンはスコールがたまに起こるのだけど、まさにその真っ最中。深夜2時。道だか川だかわからないくらいの洪水。レインシャワーの中を僕が走り、先輩が撮る。僕はこんなこともあるかもということで、余分に食料を持っていたので問題はなかったが、あの真夜中の土砂降りの中を二人で走ったことは今でも鮮明に覚えている。あのときの先輩のしぐさも。やっぱりどうしても先輩と後輩になってしまう。

僕の本、「トレイルランナーヤマケンは笑う」にも寄稿してくれました。
平賀淳『僕らは根っこの部分でつながっているから、何年何十年と会わなくたって、
「オッス」と挨拶する関係は変わらない。』
『どんなに距離を保とうとしても一瞬にして先輩と後輩の関係に戻ってしまう』
『冷静さを保とうとしていても、心の中ではがんばれと応援している自分もいる』
『レユニオン島の小さな村の山の中で、一緒に走りながら「不思議だね」と話をしている。なんでこんなところにお前がいるんだよと互いに笑っている』
『言葉では言い表せないような感覚なんですが、「不思議だね」というセリフに尽きます。それはすごくポジティブで、ワクワクするような瞬間なんです』

レユニオンは暑かったり寒かったり、環境がとても厳しいレースだだった。英語もほとんど通じない。このレースでは睡魔、幻覚、幻聴にやられた。何度も倒れ、森の木がゴジラに見え、滝の音は大きな拍手に聞こえた。とても苦しいレースで、珍しくゴール後にはチームメイトを見た瞬間に涙があふれ出た。そんなときも先輩が近くにいた。山の上で撮ってくれていて、その後急いで降りてきたらしく、先輩は汗だくだった。

僕と先輩だけ汗びっちょ

写真をみてもわかるように、先輩はいつも全力で最高の映像を撮るために努力をしていた。笑えるような面白い話もあるけど、基本いつも全力。それが周りにも伝わり、みんな全力。先輩がいる遠征チームは笑いと全力があふれている。最高にいい雰囲気です。

その後

先輩は世界の秘境を飛び回り、素晴らしい景色と人を映像としてお茶の間の多くの人に伝えていた。こちらはしばらく僕の撮影はなく、たまに地元の会で会うくらいだったかな。連絡は変わらず定期的にくれていました。「いま~にいて、~だよ」とか、そういう感じ。これも昔から変わらずだ。僕が韮崎でやっているヤマケンカップという10㎞のトレランのレースにも忙しい合間をぬってしっかり参加してくれました。

ヤマケンカップ2019まじめに走っています。トレーニングはかなりやっていたんじゃないかな
©takebe doryu

2020年

甲斐国ロングトレイル。約10年前に先輩が考えた甲府盆地の周りの山々をつなぐ旅。先輩の構想に自分の考えたルートを自分なりにアレンジして地元の仲間と走ってみた。336㎞、5日近くかかった。韮崎をスタートし、茅が岳から入り、富士山へ向かう。そこから富士山を離れ、地元鳳凰三山を最後の山として韮崎へ下る。まだまだ本来の趣旨からすると改良点は多々あるが、一応つなぐことができた。こちらに関しては映像制作会社のライトアップの皆さんが撮影と編集を手掛けてくれ、『未知の領域へ 甲斐国ロングトレイル200マイル』が完成した。映像内に構想の発起人である平賀淳氏の貴重なインタビューが始めと終わりにしっかりと収められている。

「110分あるけど一気に見れました」と、感想多数いただいております
まだの方はどうぞ
たくさんの方に協力していただき、旅の記録まとめました
フルマークス各店、エルク、アメリカヤ2F、韮崎駅ニコリ、白馬三八商店、鎌倉クルベル・キャン
にて取り扱っています

2021年

山梨県境をなぞる旅、300マイル(480km )にチャレンジ。前年の甲斐国ロングトレイルが内回りだとすると、こちらは外回り。約160㎞長い。この撮影を平賀淳カメラマンがフルで行うとのことになった。

つづく・・・・

yamamoto