2022年5月19日午前9時、登山をしていた。ふと携帯を見ると、山関係の仲間からの着信が何件かあった。気付いたとき、とても嫌な予感がした。恐る恐る折り返してみると、それは平賀淳カメラマンの遭難、死亡を告げる電話だった。胸が張り裂け、僕は叫ぶしかなかった。

彼は誰よりもタフで且つ慎重、絶対に死なない人間だと思っていた。どんな場面も切り抜けてくるだろうといつも思っていた。

彼の死から半月。目まぐるしく時間は進む。けれど彼はいない。夜家族が寝てから彼の写真を眺める。こんなことを繰り返しているこの半月。おかげでいつもより寝不足だ。いろいろ考えたが、彼のことを少しでも多くの方に知ってもらいたいと思い、ここに紹介していこうと思う。

平賀淳ひらがじゅん。彼は山梨県立韮崎高等学校山岳部の一つ年上の先輩である。 僕はこの韮高山岳部に平成8年山梨開催の全国高校登山大会(インターハイ)で一番になるために入学した。先輩方はおもしろおかしかったんだけど、いつもどこかに本気の「目」を持った人たちが多く、はじめはちょっと緊張した。平賀先輩もその一人で、同じく、地元全国一を強く目指していた人で、すぐに気が合い、仲良くなった。

先輩はとても強かった。何をしてもかなわなかった。平地でのランニングや山の走りでは勝ったことはない。山岳部は練習として、走った後に、 近くの東ヶ丘病院のグラウンドを借りてサッカーをしていた。60リットルのザックを背負って現地まで走るんだけど、その中には古雑誌、サッカーのスパイクが入っていた。そしてサッカーボール担当が一人プラスでボールを持っていく。毎日暗くなるまで全力でサッカーをしていた。とにかく走る。その場面でも、先輩は中学校までのサッカー経験も活かしながらとにかく走る、僕は全く勝てた気がしなかった。

ゼブラ柄のジャージでザックを背負い走ることが日課。

悔しい思いもあったんだけど、それでも毎日がとても楽しかった。本気で毎日競い合っていたからかな。毎日が刺激的。

週末は山へ。当時、顧問だった秋山先生と小林先生にたくさんの山に連れて行ってもらった。先輩はいつもカメラを持ち歩いていたのを思い出す。初めて行った泊まりの山行は地元の鳳凰三山。

僕が撮っているのに撮り返してくる赤いTシャツの平賀先輩
僕たち山岳部員の多くは、写真部にも入っていたのです。
3月にも雪の鳳凰三山へ。
2泊3日の寒いけど楽しいテント山行

先輩はチームのキャプテンとして盛り上げ役だった。高校のときからいつも写真を撮るか、ビデオカメラを回していて、この頃からそういうことをしてた。数年前、みんなでキャンプ場に集まった時、高校時代のすごく懐かしい映像の一部を見せてくれた。みんなスクリーンに食いついてみていた。先輩の言うことはいつも「スクリーンの撮影禁止!」そして映像もいつも小出し(笑)。著作権とかじゃなくて、その時の一瞬一瞬は貴重な時間であり、二度と戻らない時間。当時のみんなで過ごした時間の尊さ、そして、カメラマンとして映像の貴重さも訴えたかったのか。うまく言えないけど、そんな意味があったんじゃないかな。

国体

週末は楽しい山行が続いていた。日帰りだったり泊まりだったり、日本一になるために入った山岳部だが、先生方や仲間のおかげで純粋に山に登ることが楽しくなっていた。どの部員も同じだったと思う。もちろん先輩も。夜はお互いの夢などを語り合うこともあった。先輩はふざけた話も多かったが、最終的には「俺たちは日本一になるんだ」と熱く語った。

秋になると、インターハイの他に、国体(国民体育大会)があることを知る。縦走と踏査。縦走とは一人12㎏背負い決められたコースでタイムを競う。踏査は1チーム30㎏(定かではないが確かそのくらいだったような)分担して背負い、山の中に置かれたポイントを地図に書き込みながらその位置の正確さとタイムを競う。どちらも1チームは3人。これに全力で取り組んだ。もちろん先輩も一緒だ。大会が近づくと毎週のように大会会場に泊まりで出かけた。ものすごく苦しかったけど、それ以上にみんなで競うことが楽しかった。チームの中で唯一敵わなかったのは平賀淳だった。打倒平賀淳!何としても勝ちたかった。闘志むき出しでくらいついていこうとするが必ず負ける。勝てたことがない。悔しかった。でもそんな気持ちでいつもやっていたおかげで毎年山梨県は関東予選をトップで突破し、秋の国体へ行くことができた。

ふくしま国体 先輩が2年の時
福島新潟境、浅草岳からの田子倉湖
この頃は金~月が現地調査で、火~木が学校。これが大会前は一月くらい続く。。最高
先輩はいつも、情熱の赤いウエアにピンクのハチマキ、ホイッスル持参
いつもスタートからやたら飛ばすんですよね
合宿所はいつもこんな感じで、毎週修学旅行状態(笑)
レースが終わった後は後夜祭っていうのがあって、全国の仲間とたくさん笑い合いました
先輩が3年の時の国体ではその中でも中心的存在だった。この人はすごいと思った。
先輩の訃報をニュースで知り、連絡をくれた仲間もいます。

レース中やトレーニング中は普段の時と全く違い、とても厳しい人。気合いの声が小さかったりすると怒られたりしたこともある。「健一、そんなんじゃ逆に力が抜けるぞ」なんてね。終わると、出し切った感じで「おつかれ」と優しく声をかけてくれる。そして下山するといつものおふざけキャラで、時にどじしてみんなからいじられたり、いつも中心的存在だった。先輩は強くて面白くておっちょこちょいで、だから何をしても許されてしまうところがありましたね。でもその根底には絶対にやらなきゃならないことは誰よりもしっかりやっていた、というのがあるんでしょうね。

インターハイ

国体は5位から8位くらいで毎年入賞はできたんだけど、トップにはなることができなかった。高校に入学した一番の目標、「山梨インターハイ優勝」これは先輩も僕も頭から離れることはなかった。

インターハイは国体とは競技内容が異なる。1チームは4人。国体は体力や読図。インハイは山の総合的知識といった感じ。体力審査の他に、バランスよく山を歩く歩行技術の審査もある。コケてはだめ。天気図を描いて予報する。学科試験があり、歴史や植物の名前も問われる。ご飯を衛生的に手際よく作れるか。テントを協力して速く正確に立てる。仲間割れは減点。読図、持ち物検査、行動記録、登山計画書、マナー、、、4日間にわたり審査されて順位を競う。得点の比率の高い読図は、何度も下見に入りやすい地元が有利とされる。だから地の利を生かせば全国優勝も可能だ!というシンプルな考え。

県予選を無事に優勝し、いよいよ本番。登山競技は全競技の最終種目。周囲からも期待がかかる。僕も先輩方に混じり一緒に選手として出場していた。事前の合宿では会場となった北岳や甲斐駒に集中的に何度も登り、地形を頭に叩き込んだ。今はほとんど忘れてしまったが、当時は起伏や沢の数など、完璧だった。特に先輩は自信に満ち溢れていた。

何度登ったかわからない北岳
トレーニングの時は先輩が先頭でやたらペースが速いのです

とにかく準備をしっかりする人だった。念入りに慎重に。一つ一つのことを丁寧に、しっかりできるまで妥協せずやる人。

平賀リーダー
「体力とチームワークはどこにも負けない自信がある」
「ずばり優勝しかありません」
ボッカレースで体力強化
ウワサの丹沢ボッカ駅伝 1996年
韮崎高校Aチームは全員区間賞で完全優勝(平賀淳1区)
Bチーム2位、Cチーム5位。

自信を持つことの大切さ。インターハイを通して先輩から教わったことの一つ。根拠のない自信ではなく、やってきたからこその自信。自信をつかむためにとことんやる。練習で成功体験を繰り返し、それを積み重ねることによって自信をつける。だから楽しさが見つかる。そのためにはさらに苦しいこともできる。そしてまた積み重ねる・・・そんな姿をいつも近くで見せてくれた。これは今でも僕の基礎となっている、とてもとても大事なこと。

平賀リーダー
「悲願だった優勝を果たして先輩たちを喜ばそうと誓い合って臨んだ大会。優勝は私たちだけのものではなく支援してくれた皆さんのおかげ」
山梨日日新聞1996年8月

「がんばろう」という気持ちより「ありがとう」という気持ちで取り組むこと。これも教わった。先輩らしいな。

平賀淳という先輩に会えて、いつも一緒にいて、もろに影響を受けた高校時代の話でした。

そして先輩は「俺はエベレストに登る!」と言って卒業していったのです。

いつもテントを干したプール前で
しばしのお別れ。

つづく・・・・・

yamamoto