2006年3度目のハセツネに向けて
2005年2度目のハセツネを2004年より1時間15分短縮しながらも前年と同じ26位で完走したわけですが、さらにやる気が出てきてしまったんですね。レースが終わった時点から、来年はもっと上位に入る、という言う風に意気込んでいました。冬は競技として相変わらずモーグルに没頭したわけですが、2005年は長野から山梨に移り、高校教師として生活を始めていたので平日は山岳スキー部の生徒とランニングをしていました。
夏の山走りと冬の山走り
山岳部の生徒は、冬はクロカンスキーをすることにしたんです。それは夏の登山に役立つと思ったから。それから逆に登山が冬のクロカンに役立つと思ったからです。もちろん僕も生徒と一緒に始めました。初めての合宿は野沢温泉上ノ平コース、あのエッジの無い細い板、かなり手強かったですが、クロカンのおかげで新しい有酸素トレーニングを始めることができたのです。クロカンはかなりの全身運動、かなりの高強度なスポーツです。そして、時に過酷な環境になり、精神的にもとても強くなれます。トレイルランナーの皆様、おすすめです。この二つ連携すると双方にとても効果が出ると思います。
毎朝のトレイルランニングと膝の手術
4月になり、モーグルの試合も、生徒とのクロカン合宿も終わり、グリーンシーズンに突入しました。始めたことは、朝、出勤前に自宅付近にある標高1000mの苗敷山を走って登ること。登山口まで自宅からジョグで10分。そこから30分ペースを上げていけるところまで行くというトレーニング。折り返して自宅へ戻る。だいたい1時間ちょっと強度高めのトレーニングを週に4回ほど行いました。そして夕方は部活で生徒と一緒に12~15㎞ロードを走る。白いサポーターと共にこんな練習をしていました。膝は2000年のモーグルでの怪我からずっと痛みを伴う違和感があったんですが、いよいよ次のレベルの痛みに変わってきていて、いかん、このままではハセツネを走り切れない!と思い、ついに病院に行くことに決めました。地元の病院だったんですが、ドクター(スポーツドクター)に「ガングリオンがあります」と言われました。「これはガングリオンで、3センチほど切ってすぐ取れますよ。30分でオペは終わります」それなら簡単だからいいだろう、とセカンドオピニオンもせずに、そこで治療をしてもらうことにしたのです。ところが、オペが始まって、30分、局所麻酔で膝をぐりぐりやっています。1時間がたち、2時間がたち、そして3時間がたち、やっと終わりました。そして、ドクターの一言に驚きました。「これ、ガングリオンじゃない」傷口は予定していた3センチの倍以上はありました。なんだかすっきしりしないまま、帰宅。そして1週間後さらに追い打ちが。傷口が化膿しました。入院です。また膝に穴を開け、今度は洗浄するための管を膝から入れました。もう足も心もボロボロで、うわぁやっちまった、っていう感じでしたね。これ、生徒との山登りを楽しみにしていた夏休みです。僕の2006年の夏休みは山の夏空ではなく、ひたすら天井を見て終わりました。
退院しても全くすっきりせず、モーグル仲間の先輩に、膝のおすすめの病院はないかと尋ねました。モーグルやっている人たちはかなり怪我をしてますので、病院にとても詳しいのです。多くの選手は膝靱帯を断裂して再腱しています。そこで教えてもらったのが、千葉東京神奈川にある3つの病院。とりあえずすべての病院に行き、診てもらったところ、どの病院でも「半月板損傷」とのことでした。セカンドオピニオンをしなかった自分が悪いのだけれど、正直、「まじかぁ」っていう気持ちでしたね。ひとつの病院はオペをせずに温存、膝周囲筋を鍛えてやってみましょう。残りの二つの病院はオペをしたほうがすっきりします。あとはリハビリをしっかりやること。ただし、膝が変形してきます。僕は藤沢湘南台病院でオペを選びました。この膝の痛みから解放されて新しい世界を見たかったからです。そんなことで、2000年冬以来の痛み違和感があった、右膝の手術に踏み切ったわけです。僕の半月板は、ほぼ粉々で縫合は不可能で、切除することになりました。前十字靭帯は半分は大丈夫ということでそのままにすることに。
出会いによって変わっていく自分
先が見える手術だったので、けっこう前向きな部分もあったわけですが、やはり「はぁ~っ」っていうため息がいつも出てくる感じで夏の手術を後悔していたり、後ろ向きな部分もまだまだあったことに違いありません。しかし、そんな自分が2週間の入院期間中に少しずつ変わっていったのです。
まず、同じ時期に足首のオペで入院していた当時海上自衛隊厚木マーカスのサッカー選手松本さん。彼が偶然にも同部屋の向かいのベッドで、すぐに意気投合しまして、たくさん話しました。そして、ベッドの上はもちろん、病院のフリースペースを見つけては筋トレばかりしていました。本当にとても楽しかったですね!24時間一緒にいるわけで、お互いまだまだ現役の選手、合宿生活は手抜きはできない状態。(笑)この松本さんとの時間は、僕に、どんなときでもできることをやって、一歩でも前に進むほうが楽しいということを教えてくれた貴重なものでした。できることならもっと一緒にトレーニングしたかったです。 (トレーニングに夢中で写真なし)
もう一つ大きな出来事が。今まで、納得のいかないことを受け入れるなんて言うことは考えたこともなかったわけで、こんちくしょ~!なんでこうなるのっ?って思っていたのですが、僕をトレイルランの世界に招待してくれた名塚さんの奥様が病院にお見舞いに来てくださった際に、
「今起きていることは、すべて必要なことだよ、すべてを受け入れてみよう」
そんな風に言われ、ハッとさせられました。単純な僕は、そうなのか・・・と。自分の膝の状態を初めて受け入れることができ、不思議なくらい前向きになれた瞬間でした。新しい扉を開いた感じ。すごい言葉でした。
無事に退院はしたのだけれど、まだまだまともに滑ることも走ることはできない状況の中で、正直行き詰っていた僕に、教員仲間で元プロサッカー選手の方からいいお知らせが届きました。「富士見(長野県諏訪郡)に越中さんていうすごい人いるから一度診てもらったら」って。
「えっちゅうさん?」
ひとまず電話して、行ってみることに。治療院はなんだかトトロの森のような不思議なところでした。そして話をして、体を触ってもらいました。3回目くらいには茶色の伸縮性(当時キネシオ)テーピングを施してもらい、そのまま大学時代のホームゲレンデ、飯綱リゾートへ。ちょっと怖かったけど、なだらかなモーグルコースへ足を踏み入れてみると、、、、、なんと!普通に滑れた。しかも、ちょっと調子いい!これはすごいんじゃないの!?しかもその年、札幌で開催された宮様スキー大会、ほとんど練習していないのに、結構いい滑りができちゃったんです!越中さんのキーワードは
「滑れるだけで幸せでしょ!」
「走れるだけで幸せでしょ!」
「体に感謝しなきゃね!」
でも、札幌から戻った白馬で、滑れるもんだからつい練習に熱が入りすぎて、前のめりに転倒して、カチカチのコブに鎖骨からぶつかり、そのまま「バキッ」って。あっさり折れちゃいました。かなり気持ちも前にいってました。危険です前のめり。これ3月中旬なんですが、職場では「脚の次は鎖骨か・・・」と先生方に呆れられました。ほんとすみません。でもこちらは半月ほど痛みがありましたが、手術もしなくて、4月からは鎖骨バンドしながら、生徒とバリバリ走りました。ただ最初はザックが背負えなくて大変でしたが・・・
別れの時
ついにその時はやってきました。越中さんに出会ってから、これまでありがとう、と2000年以来6年間お付き合いをさせていただいた白いサポーターとお別れすることになりました。越中さんにも「サポーターはいらないと思うよ」と言われ、思い切ってなしで走ってみました。すごい気持ちよかったです。白サポなしのランニング。また新鮮な気持ちでトレーニングを開始です。
といことで2006年3度目のハセツネは出場すらすることができませんでした。
そして、2007年のグリーンシーズンにすべてをリニューアルして突入したのです。
さぁ次はいよいよ一年空いての、3回目、4回目のハセツネです。
yamamoto
Comments by yamaken