ハセツネという山岳レースを知っていますか?

正式名称は、日本山岳耐久レース。距離71.5㎞。スタート時間は午後一時。制限時間は24時間。トップ選手でもヘッドランプの暗闇走行を強いられます。いつも10月の体育の日のあたりで開催されるレースで、出走者は約2000人、1993年に第1回が開催され、今のなお人気のあるレースです。世界的クライマーである登山家の故長谷川恒男さんの業績を讃えるとともに、ヒマラヤ登山への登竜門として始まったレースであることから「ハセツネカップ」というのです。

僕は2004年から、モーグル競技と並行してトレイルランニングレースに参加し始めたわけですが、このハセツネが初めてのレースだったのです。そもそもなぜハセツネを知ったかというと、それはすごく運命的な出会いからだったんです。2003年、当時は白馬でモーグル競技にバリバリ取り組んでいたころで、夏は体づくりをするんですが、その、トレーニング中にいきなり、「おじさん」に話しかけられて、ハセツネのことを知りました。話を聞いた瞬間に、面白そうだ、とビビッと来ました。そして、基本、モーグルに必要なトレーニングを行っていたのですが、時にハセツネを意識したトレーニングもしました。海外のモーグル選手がオフに山を走っている映像を見たことがあり、そんなものにも憧れはあったし、もともと高校一年生の時から部活で山を走っていたので、特に抵抗なくハセツネに向けて準備できました。といっても、今から考えるとそんなにたいしたことしていなかったなぁ、と思います。たまに大町の爺が岳とか行くくらいでしたね。メインのトレーニングは公園やグラウンドをジョギングしたり、ジムへ行き筋トレをすることでした。体重は今は65㎏ほどですが、当時は72㎏ほどありました。ベンチプレスやスクワットばかりやっていましたので。

初めてのハセツネ

さて、2004年10月いよいよ1回目のハセツネ。僕は2000年にモーグルで痛めた膝が不安でそれ以来走るときは白いサポーターを巻いていました。もちろんハセツネにもそれを装着していきました。装備は‥‥今から考えるとすごいです。高校の時に3年間使った通学用の25Lリュックサックを実家の押し入れから引っ張り出し、2Lペットボトルを2本、特大おにぎりを7~8個、ヘッドランプは、単4の乾電池3本のタイプで、今から比べるとかなり暗いものでした。ウエアは当時教員チームで所属していたサッカーチームのゼッケン「4」の短パンをはいていたことだけ記憶にあります。靴はプーマのランニングシューズ。しかもかなり使い込んである溝のないやつ。当時はまだ装備が大して注目もされていなかったのか、「おじさん」からはその辺の話は特に聞いていなかったのか、、、もし今の僕がそれを見たら、当時の僕にきっと何時間もかけてアドバイスすると思います。(笑)水とおにぎりが特に重かったんでしょうね。食料に関しては、僕が働いていた小学校に勤務していた先輩の先生が、なんと過去にハセツネに出場していて、その先生から「食べ物はたくさんあったほうがいいよ」とアドバイスをいただいていました。その先生は実はハセツネを途中で失格になってしまい、完走していないんです。その失格の理由が、役員さんが持っていたパンをもらって食べてしまったから、だそうです。役員さんに「このパンを食べたら、失格になるけど」と言われておきながらも、1%も迷わずそのパンを食べたらしく、そのくらい腹が減るぞ、ということ僕に教えてくれました。恐るべしハセツネ。ということで食料はたくさん持ったんです。レースの方は疲労度がものすごくて、ゴールしたらビール飲みたい、とかゴールしたらカップラーメン食べたいとか、そういうことを考えていて、これはまさに修行だ、と。高校の時の強歩大会(マラソン大会)は62㎞(韮崎高校から原村経由で諏訪湖)だったので、距離の感覚はなんとなくあったのですが、その距離を山の中でランプを点けて走るっていうのが、うわー、すげー!っていうかなりの非日常を味わうこととなりました。一回目のハセツネは何しろ初体験だったので、どんなもんだろうというワクワクする気持ちと、苦しみに耐えて、最高のご褒美を自分に与えよう、という具合でうまく完走できたんじゃないかなと。このようにきつくて、じっくり行けるのは自分向きだなと思いました。膝のほうは、白いサポーターのおかげか、このレースの大きな刺激によってか、痛みはほとんど気にならずに走ることができました。もう一つこのハセツネで大きな出会いがありました。それは新潟県に住むプロトレイルランナー、松永紘明くんと途中から一緒に走ったことです。彼とは抜いたり抜かれたりで、「すみませ~ん、越します!」という会話を何回しただろうか。彼の装備は僕よりも斬新だった。特大のウエストバッグの左右にオレンジ色の飲み物(多分野菜ジュース系のような)を2本つけてそれを両手で押さえながら走っていた「喉乾きますね~」とか言っていたのを覚えています。結果は彼のほうが数分早くゴールしていて、ゴール後はたくさん話をしました。

1回目のハセツネは11時間6分、26位でフィニッシュしました。もちろん「おじさん」も出ていて、ゴール後「立派だね~」とほめられたことがうれしかったです。

(写真がないです)

おじさんの正体

そろそろ「おじさん」、「名塚達夫さん」の正体を。名塚さんはバリバリの登山家で、ヒマラヤにも何度も出かけて、未踏峰への登頂にも成功しているすごい方です。またマラソンや駅伝にも全力で取り組み、ハセツネにも過去何度も出場し、年代別(当時50代)で入賞するほど。まさにハセツネの理念に基づき、ハセツネに出場し、山を走って体を鍛えている人です。厳しいトレーニングも、その先の目標のためだし、泊りで山へトレーニングに連れて行ってもらったこともあるけど、テント生活などにもすべてにおいてとても楽しみながらトレーニングしている姿に、とてもいいなあと思って。だから名塚さんの近くでいろいろ教わろうと思ったのです。今も電話したり、自宅にお邪魔したりしています。もちろん会えば必ずトレーニングします。名塚さんにあの公園で出会わなければ今の僕はなかったかもしれません。出会いってすごいですね~。

長野県北安曇郡池田町駅伝チーム(2004年)
名塚さんの紹介で2年間池田駅伝チームに入れてもらいました。とても面白くて、大北チームで  長野県縦断駅伝にも出場させてもらいました。
下段左側の帽子をかぶった方が名塚さん。小柄だがめちゃ速い。僕はなぜかセンター。

2回目のハセツネ

そして2回目のハセツネは翌年の2005年。正直かなり燃えていました。2回目でしたが、どうしても、もっと活躍して上位に入りたかったんです。トレーニングも走りが少しずつ増えていきました。この競技にすでに、「はまっていた」のです。でも出場するレースはこのハセツネだけ。この年は、ハイドレーションを採用し、おにぎりも特大から食べやすい小玉に。あとは地元のアウトドアショップのエルクで安売りしていた15Lほどのサブザックを購入し挑みました。だいぶコンパクトになった感じがします。トレーニング量が増えたことと装備の軽量化があってか、タイムは昨年より1時間15分ほど縮まったんですけど、順位は前年と変わらず26位。とてもショックでした。レースは相変わらずの修行で、やはり「ビール飲みたい」。前年に様子が分かったので、2回目のハセツネはタイムや順位をかなり意識していました。松永君も出走していたけど、かなり差をつけられました。ゴール後はまたたくさん話をして、まだ2回しかあっていないのに、もう何年も前からの知り合いのような感じでとても仲良くなりました。トレイルランニングの素晴らしいところ、それは深い絆、つながりがあっという間にできること。今までにない経験です。レース後はいろいろな選手と話をしました。もっとがんばって順位を上げていきたいという気持ちにさらにスイッチが入り、来年も絶対に出場するんだ、という強い決意で会場を後にしたことを覚えています。きついレースが終わったばかりなのに、もう来年のこと…もう、この競技にドはまりなわけです。この頃の膝は、、、、トレーニング段階では違和感ありありで、相変わらず白いサポーターを付けていました。レースでもそれを膝に装着して膝の痛みは特に気にならずに完走しましたが、その白いサポーターを外す気持ちにはならなかったですね。でも白い布のサポーターに71.5㎞痛みを和らげてくれるそれほどの効果があったのだろうか・・・。

安心感ってどんな場面でも、何より力を発揮してくれるんだなぁ、とつくづく思いました。

「白いサポーター」
ハセツネの写真がないのです。すみません。これは大北縦断駅伝、小谷村~池田町間で襷をつなぎます。白いサポーターが光ります!体重は72㎏ほど。(現在65㎏)ユニフォームきつめです。

さて、2006年3度目のハセツネは・・・・気合入っているぞ~!

つづく

※トップ画面は、サッカー選手の田中達也さんでもなく、スマップの草彅剛さんでもなく、スキー仲間のTさんです。いろんな方を誘い夏はハセツネに向けてよく走りました。

yamamoto