スキーの写真がほとんどありません。文字が多くてごめんなさい。スキーは小学生に上がる前から両親に教わりながら年に数回行っていました。お正月明けには家族と親せきと、父親の友達家族と必ず泊りでスキー合宿があり、それが一年の楽しみでもありました。スキーをすることはもちろんですが、雪遊び、行くときの車の中や、ホテルでの夜、朝ご飯、ランチ、すべてが夢のような時間で、小さいころからスキーに行くことは特別な存在だという認識がありました。
小学校、中学校とサッカーや陸上競技の間に滑っては楽しんでいました。高校では山岳部と冬はアルペンスキー部に入りました。あと写真部にも・・・ポール練習もしましたが、どちらかというと、コブを滑ったり、飛んだりが好きで、オフには必ず友達と、八ヶ岳付近のスキー場に小海線に乗って出かけたり、未明の急行アルプスで白馬へトリップしたりもしました。コブばかり滑っていたかなぁ。卒業旅行は同じ高校の仲良し3人組でアメリカのブリッケンリッジへ行き、あっちに引っ越した友達が居たというのもありますが、コブを滑りました。とにかくやりたいことはやらないとすまない性格なので、そんな遠くまで旅行することになっちゃいました。
そして大学。そもそも僕は本気でモーグルでオリンピックに出場したくて大学を選んだのですが、そこは長野県飯綱高原の麓、信州大学教育学部。そうです、飯綱といえば、1998年長野オリンピック女子モーグルで金メダルを獲得した里谷選手!そこのコースには里谷多英コースという名前がついています。(残念ながら2020シーズンで飯綱高原は営業終了となっています)そこで練習すればオリンピックに行けるのではないか、という安易な考えです。信大は一年生のうちは松本市のキャンパスで授業を受けます。そして順調にいくと二年次からそれぞれの地域に行き専門的な勉強をします。よって僕も一年次は松本からみんなで白馬のさのさかに通いました。そこはモーグルのメッカでしたね。うまい人がたくさんいて、モーグルスクールもあったりして、よくみんなで教わったりしていました。そして、信大モーグル部の代々のバイト先である八方尾根にある丸石旅館でバイト(居候)をさせてもらいました。授業はもちろん出ますが、それ以外の時はほぼ毎日スキーの生活で楽しすぎて、成人式すら帰省せずに滑っていました。普段、やりたいことに対しては何も言わない親でしたが、さすがに怒られました。
二年になり、順調に長野市に引っ越しました。飯綱にも行きましたが、松本の仲間もいたため、結局白馬に行くことが多かったです。丸石旅館での生活もありましたので。
その日はやってきてしまいました。さのさかでいつものようにみんなでトレーニングしていて、一人ずつ滑るのですが、やっぱり、少しでも速く、そしてエアは高く飛びたい、見ている人に、おおぉと言われたい。そんな気持ちにいつもなるのですが、第一エア、大きく飛んで、気持ちいい~、決まった~、と思って着地を見た瞬間、{やべ~、このままではあのとんがったコブの頭に落ちちもう!}(若干甲州弁)と。
やりました。ドンピシャで寸分狂わずとんがりの頭に落ちました。膝は曲がりすぎ、上体もつぶれて、膝であごを強打。いてててて。そのあと勢いで滑り降りたのですが、なんか違和感が残り、数時間しても、一日たっても、数日たっても嫌な感じがしました。これは怪我かもしれない。これまで、指の骨折程度しかしたことがなかったので、よくわかりませんで、すぐにも病院にいきませんでした。でもおかしくて、病院で人生初のMRIをとってもらい、そしたら前十字靭帯が部分的に断裂しているとのことでした。半月板については何も言われなかったのです。手術なんていう話にもならなかったし、甘く見ていました。でもおかしくて、白馬の整体に通いました。そこでは筋トレの仕方や、スキーで使える強めのサポーターを作ってもらいました。そのサポーターをすると、まぁまぁ怪我の前と同じくらいには滑れて、これでいいか、という感じでまたガツガツ滑り始めたのです。
今考えると、完全に治す方法はいろいろ考えられたかもしれません。でもできませんでしたね。周りに競っている仲間がたくさんいて、みんな滑っているし、遅れたくないし、休むなんてことはできませんでした。
結局、膝はサポーターして筋トレして滑って4年間終わりました。そこまで著しい悪化は感じられなかったものの、サポーターなしでは滑れなくなりました。四年次には気合入れて、ガソリンスタンド、家庭教師、宅配便の深夜バイトしてお金を貯めて、NZへ行き、モーグルキャンプに入りました。その甲斐あってか、冬には学連の推薦で、全日本選手権に出場することができました。結果は惨敗でしたが・・・・
4年間大学でモーグル部として取り組み、結局、あっさり怪我もして、オリンピックへも程遠かったのだけど、モーグルが楽しすぎて、なんの後悔もしていないというのが率直な感想です。信大のモーグル部で活動ができたことが大きな財産です。今のトレイルランナーの僕としては、怪我のお土産ももらって、目標も達成できなかったけど、(おまけに、小学校の教員免許がかかった授業もすっぽかしてスキーに行ってしまった。)本当に好きなことに打ち込むことの素晴らしさ、それはとても幸せなこと、結果がすべてではなく過程も同じだけ、いや、それ以上に大切ということを実感した4年間でそれは今に大きくつながっていることです。だからたぶん誰に何と言われようと、その時はどうにかして、滑っていたんじゃないかな。
膝の立場からからしてみれば、主人の好きなことに付き合わされて、痛めつけられたわけで、僕はもっと脚とか、いろいろな部分に感謝しなければならないなぁと、今いろいろな方に出会ってそう感じれるようになりました。とにかくもんだり、さすったりしてケアしてあげないと脚がかわいそう。「よくがんばってるね~」ともみながら脚に語り掛けないとですね。当時は気付かなかったなぁ、、、「なんでおれの膝はだめなんだー!」ってばかりでした。
今は膝のためにコブはほとんど滑らなくなりましたが、代わりに、クロスカントリースキーや、BCスキー、スノーボードが楽しくてたまりません。
その時はわからなかったかもしれないけど、純粋に好きなことに好きなだけ打ち込める環境って、そうはないし、今40歳でそれを再び手に入れたのだけど、それはとても特別なことでありがたいことだったんだと、いま強く思っています。
走りのほうはモーグル同様、今とても夢中になっているので、行けるところまで行くと思います。脚と語り合いながら。
次回はいよいよオペの前後の話です。
「脚に感謝する」
僕が大きく変わった出来事がたくさんありました。
つづく・・・
yamamoto
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