ソフトな語り口が印象的なカナダ人スキーヤー、モンテ・ペインターはLahual地域の小さな村の雪に覆われた斜面で12人の地元の住人たちにスキーレッスンを行っていた。この特別な機会を記念すべく、スキーグループは地元の方言でShittiと呼ばれる頂まで、昔のスキー道具、鋳鉄製のツーバーナーストーブを運んで行った。Shittiの上方には、Shitti川に繋がるShitti氷河があり、川にはShitti橋が架かっている。山頂にはインスタントラーメンと地元で醸造されたチャンビールをたっぷり用意して、村人がレッスンが始まるのを並んで待っていた。ほとんどの村人がジーンズを着用し、時代遅れのレンタルショップから借りたスキーを履いていた。くたびれたスキーブーツのシェルには裏地がなく、男性用のニットソックスで隙間を埋めているものもいた。使用できる器具には限りがあったものの、彼らは一向にそのことは気にかけず、ともかくスキーを習いたい気持ちでいっぱいだった。この村人たちにペインターがスキーを教えたのは、2009年の冬だった。
3年後、ペインターはRhotang Ri の頂上でスキーからシールをはがした。標高5,000メートルもの高さにも関わらず、ギザギザの褶曲に囲まれた大地から突起した山々がそびえるなかで、この山は小さな存在に見えた。南方には標高6,000メートルのHanuman Tibba がそびえ、その山はインドのヒマラヤ山脈への入り口であり、商業ハブでもあるManaliの上方にのしかかっているように見える。北側には、マッターホルンのような様相の聖なる山脈、Gespang Goh が突き出していた。その山では、神が遥か下の小さな村に住む弱き村人たちを守っていると信じられていた。だが、これらの山脈は、ほぼ名前がつけられている数多の広大な山々、そして、氷河の2つでしかなく、他の山々は地図上で単に番号がつけられているのみで、ヒマラヤに最も印象的な刻印を残すために近くのカシミール、チベット、そして、ネパールに消え失せていくように見える。
ペインターは、すり鉢状になる40度の斜面をストックでたたいた。彼は20年間首に巻いていた黒いチベットビーズを指に巻きつけた、「これは雪崩から救ってくれるらしいんだ」と彼は語る。ここまでは順調だ。間もなく、彼のスキーは難なく霧状のアイスクリスタルから成るパウダースノーに、鮮やかなアーチを描き、まるで逆光のように雪上に残った波形のスキーの線が輝いていた。上り勾配で彼の姿は消え、その数秒後再び姿を現した。Rhotang Passの下方、1,000メートルでは小さく見えた。2本のラインは、仏陀の遺骨があると信じられ、山道や山の頂など、宗教的に意味が深い場所に設置される巨大な仏舎利塔を通り過ぎた。その建物の上には、嵐のために擦り切れて、ボロボロになったたくさんのカラフルな旗がはためき、仏教のマントラを風に乗せてなびかせていた。
標高3,900メートルを誇る山、Rhotang Passは「積み上げられた骨」を意味する。なぜなら冬季にこの凍ったスロープを登って何名ものクライマーが命を落としたからだ。北方で遠く離れたChandra Valley からManaliを分断させ、山道は11月から5月まで3メートルの深さの雪に覆われる。そして、Lahauliの住人たちは他のエリアの文明との接触が断たれるのだ。
現在、39歳のペインターは、カナダのブリティッシュコロンビア州、パーセル山脈にある小さな町で育った。そこでの生活はスキー三昧だった。この町の山腹の深い渓谷を心地よく滑走していたペインターは、才能あるスキーヤーと言う表現では十分でないほど優れた能力を持っていた。アルペンスキーでも、テレマークでも、パウダースノー、もしくはスプリング・アイスでもなんでもこなした。ペインターのスキーは、どんなコンディションであれ、滑らかで、スピーディーだった。20代でカナダテレマーク選手権に気まぐれに出場し、スキンスーツに身を包んだカナダ国立テレマークチームの12人の選手を相手に技を競った際に、彼の才能は伝説化した。翌日のキンバリー・デイリー・ブルチン紙の一面には、「ペインターが国立チームを負かす」の見出しとともに、彼がゲートの周りを疾走する写真が掲載された。この写真のペインターは、ジーンズ、そして、油が染みついたゴアテックスジャケットを着ている。その後も、ペインターはカナダテレマーク選手権で4回優勝し、スキースーツを提供されて、世界中の大会に出場するようになった。
「多分、6回か7回くらいかな?」と彼はこれまでインドでスキーをした回数を控えめな口調で語った。彼はこの地でスキーをすることが大好きだ。単にスキーを楽しんでいるだけではなく、彼は地元の住人とのふれあいを大切にしている。毎回訪れるたびに古くなったプローブやシャベルを寄付したり、村人にスキーを教えたり、もしくは、雪崩の恐怖を若者に伝えたりしながら、ペインターは地元の人々との関係を育んでいった。彼の携帯電話には、ここ数年さまざまな村で出会ったほぼすべての人々の情報で溢れそうになっている。彼は、いつでも地元の農民、ラマ僧たちとコンタクトして、楽しげに雪の状態等について訊ねているようだ。
午前5時、ペインターは再び電話で話している。我々は、Kardangと呼ばれている小さな村の仏門の階段で、Anchul とNaresh という名前の2人の若いインド人スキーヤーを待っている。2、3日前、我々は、耕されたばかりの道をジープで懸命に走りながら、ようやくこの村に辿り着いた。運転手は雪のトンネルを走り抜ける際、大変な苦労をしたが、春の解氷時に険しい谷で命を賭けて仕事をしていた圧雪車のオペレーターたちが尾根の部分を切り開いてくれた。Keylong の傍のある場所では、我々のジープは雪崩で半分雪に埋まってしまった。人里離れた地で、スロープ上の雪崩を気にかけながら、我々はひたすらシャベルで雪を掻き出していた。
「ああ、あの仏門か」とペインターは電話でAnchul に話している。仏陀が人々をスピリチュアルな道に導くこの地では、仏門がいたるところに点在している。だから、仏門を指定することが大切なのだ。我々はさらに大きな仏門を目指してスロープを登ると、空がブルーに染まってきた。仲間を見つけると、我々は夜明け前に山に登り始めた。我々のスキークランポンは、春の地殻に食い込んでいったが、Anchul とNaresh のスタイルは違っていた。スキーブーツを通学用のリュックのなかに入れ、ランニング用の靴を履いていた彼らの様相は独特だった。標高4,700メートルの頂に達するまで5時間を要した。仏舎利と祈りの旗がはためきながら、我々を歓迎してくれているようだった。また、眼下のGondla 村の上方でShikar Beh の氷河がぶらさがっている光景は息をのむような美しさだった。地元のスキーヤーは自分たちの技術に誇らしげだった。彼らは、Chakrasamvara Pass に初めてスキーで到達した地元のスキーヤーとなったのだ。彼らの携帯電話の着信音が鳴り響いた。我々の登山を見ていたKeylong に住む友達と家族が祝福するために一斉に電話をかけていたのだ。
さて、ここからがスキータイムだ。ペインターは、大きな弧を描きながら滑走していく。インド人のスキーヤーたちは、70年代のビールのコマーシャルを思わせるジーンズとブーツに身を包んだ姿で、まるで雪上についたしわを伸ばしたり、除雪作業をするように彼の後を追って滑っていった。これは、美しい光景とは言えなかったが、どこか心が惹きつけられた。我々になじみがあるスポーツのボリウッド・バージョンとも表現できるだろうか。1時間後の今、我々は眼下に見えていた村でチャイを飲んでいる。