Everest ’85

1985年、ノルウェー人初のエヴェレスト遠征隊の記録を当時の背景をふまえながら読んでみよう。

EUというものは存在しなかったし、エクストリームスポーツなんてものはなかった。「あなたは我々側か、もしくはテロリスト側か」なんて発言は誰も言わなかったし、メールはSF小説の話で、インターネットはそれ以上にわけのわからない代物、自宅でCDを焼いている奴すらいなかった。アルネ・ネス・シニアも甥のジュニアもオーラヴ5世もまだ生きていた。リアリティTVもなかったし、チャットホステスもいなくて、iPodもなかった。ともかく、こういうことはこのあと数十年後に出現したものなのだ。1985年、エヴェレストの山頂に足を踏み入れたノルウェー人もいなかった。
「カメラが凍ってしまったんだよ。僕はもうこれで撮影のことであれこれ考えなくて済むって、せいせいした気持ちになったのを覚えている」

スタイン・ピーター・アーシェイムは頂上に到達した時の瞬間を思い起こし、こう語る。

「ソニーのウォークマンとマイクを握り締めていた。ノルウェーのTV番組用に録音をしていたんだ。『頂上まで、わずか3メートルです』って声が録音されている」

その後は、あらい息遣い、雪に足を踏み入れた音、そして、長い沈黙の後、「あと…1メート半で…頂上です」という声が聞こえる。

この計画は、ヨートゥンヘイム山地やオスロのパブ、もしくは、アコンカグアで始まったものではない。1978年の太平洋で始まったことなのだ。そもそもはアルネ・ネス・ジュニアのアイディアから始まったものである。彼がその後執筆した著作「Drømmen om Everest (エヴェレストの夢)」にはこう記されている、「私も夢を欲している」と。

当時彼は投資家で家族もあり、自らの目標を達成してしまってはいたが、彼は自分の人生に満足していなかった。絶えず頭の中にエヴェレストがあった。ネスが入山許可について調べてみると、その当時は1シーズンで1チームのみがエヴェレストのルートを登ることが許されていた。次に登れる許可が得られる時期は、7年後の1985年ということだった。ネスは早速行動を起こし、腕立て伏せを始めて、登山を再度始めた。ロンドンのシティにあるバンクタワーの吹き抜けの階段を上り下りしてトレーニングを行った。「登頂に必要な筋肉は養われているのではないかと思ったよ」。1979年、彼は予行演習としてNumbur (標高6,951m)に登った。この遠征に際して彼がチームを結成し、彼の叔父は優れた登山家であるニルス・ファールンドと連絡を取るように計らってくれた。結果はノルウェー遠征隊史上、伝説的と言えるほどの失敗だった。

「口論が絶えなかった。社会学者の観察下で研究されるべき主題の社会的実験といったらいいかな」と当時を思い出しながらラルフ・フェイバックは語る。彼はその当時、タンベルグデータの常務を務めており、現在はナルヴィック大学の教授に就任している。ネス・ジュニアとは中学校の時からの知り合いだったが、Numburの登山プロジェクトの再会で深い付き合いが始まった。ネスの著作でフェイバックが語っているように、アルネにとって、この世界は彼がマスターとして選出されたスポーツアリーナだった。ニルスにとっては、彼が責任を請け負う庭であった。登頂に成功したものはなく、多数のクライマーは憎悪に近い気持ちを抱いて帰国していた。アルネはエヴェレストチームの編成を注意深く行わなければならないと考えていた。

「Numburの後でカトマンズに戻った時、アルネ・ネス・ジュニアとラルフ・フェイバックは、僕に彼らと一緒にエヴェレストに行きたいかと訊いてきたんだ」とオーラ・イーナン。彼は現在、ヴォルダ大学でアウトドア・レクリエーション・インストラクターを務めている。イーナンは、ファールンドとアルネ・シニアを知っていたので、Numburの登山チームに加わっていた。エヴェレスト登山の誘いについては、すぐに回答しなかった。 「こんなにたくさんの物資が必要だなんてよく理解できなかったんだ」とイーナン。
ノルウェー人のエヴェレスト遠征隊は、登山用具10トンを揃え、多数のポーターと34人のシェルパを雇うこととなった。

イーナンとオッド・イライアソンがチームに加わり、同じくチームメンバーとなったスタイン・ピーター・アーシェイムはチーフ・プランナーとなった。彼は、登山用具についての助言を求めるため、何度もエヴェレスト登頂に挑戦していたクリス・ボニントンにコンタクトした。現在イギリスの栄誉称号を受けているボニントンは、必要な器材を説明してくれた。その後、話しているうちに「そう、我々にはあれもこれも必要だ」という説明に変わっていった。彼自身もチームに加わったのだ。これで、メンバーは、ネス、フェイバック、イライアソン、イーナン、アーシェイムそして、ボニントンとなったがまだ人員が足りなかった。そこで、ノルウェーのフェイバックの故郷で開催されたアルペン・クラブの会合で20人から30人の優秀なクライマーを集めた。今で言うならば、リアリティTVショーのオーディションのような雰囲気だった。ここに集まったクライマーたちは匿名でアンケートに回答した。質問内容は、この遠征についてノルウェーで最適な人物は誰か、また遠征隊で行動を共にするメンバーは誰がいいかなどであった。

こうして、ビヨーン・マイラー・ルンド、ホーバード・ネシェイム、フィン・デーリ、そして、ハンス・クリスチャン・ドーセスがチームに加わることとなったが、最後の二人は1984年にトランゴから下山する際に命を落としてしまい、代わりとなるメンバーは見つからなかった。そして、34人のシェルパ、ポーター、少数のノルウェー人の著名ビジネスマンとノルウェーの新聞、「VG」の記者一名がベースキャンプまでは同行することとなった。遠征隊の中で、エヴェレストに行った経験があるものはたった1名だった。彼は二度とエヴェレストには挑戦しないつもりだった。1971年、オッド・イライアソンは国連がスポンサーとなった11カ国から成る遠征隊の一員だった。「あの遠征から帰ってきた後、僕は二度と行くものかって言ったんだ」と イライアソンは当時を思い起こしながら語る。「あの時、僕たちはキャンプ2の上方で死亡したインド人クライマー、ハルシュを残して行かなくてはならなかった。彼は手袋をなくしてしまって、手が凍りつき、固定したロープでカラビナを開けることができなかった。嵐が狂ったように吹き荒れていたけど、彼の居た場所までは何とか辿り着くことが出来た。でも、彼を置いて行かなくてはならなかった。意識の戻らない彼を置いて行かなくては我々が助かりそうもなかったのだ。彼は4月18日に死亡した。母国には双子の子供が4人いた」。だが、イライアソンは再びエヴェレストに挑戦する決意をした。ネスのクライマーチームはルートを決定していたので、6週間かけて固定したロープやはしごを適所に配していた。とても危険な作業だ。ネスはこのように綴っている。「これはまるで、砂の中で道を作っているようなものだった。氷が一日に1メートルごと移動して、みんな氷瀑が拡張してくるのを恐れていた。この危険地帯を原爆地帯と称していた。

「なんともひどい場所だった」とイライアソン。「小用を足すこともできず、周りも見渡すこともできない。心臓が動いている限り、動き続けなければならなかった」

氷瀑での作業が続いている間、ベースキャンプでは友情が育まれつつあった。クリス・ボニントンは当時を思い起こして語る。「ホーバードは愉快な男でね、アルネが食事時間は英語で話すようにと言ったのだが(彼は周りに気遣うリーダーだったのだ)、ホーバードは僕が毎日ノルウェー語を一語ずつマスターするようにと言って、先ず教えてくれたのが “Sokk Halbeter”だった。スペルが間違っているかもしれない。「僕は本当にお腹が空いている」という意味だそうだ。もっとも、遠征の最後になってこの言葉の本当の意味を知ったのだけど」

最初の登山チームは、ラルフ・フェイバック、オーラ・イーナン、そして、ホーバード・ネシェイムだった。最後のキャンプ地を出発した時は快晴だった。「僕のアイゼンバンドの一つが高地の険しい氷原ですぐに緩んでしまったんだ。これはすごく恐ろしいことになったなと思った。元に戻すには片足で立たなければならなかった。ここから落下したら少なくとも重傷を負っただろうし、恐らく死んでしまったかもしれない」とフェイバック。彼らは更に登り続けた。「この日は緊張を強いられる日だった。急に風が強くなってきたりした。我々は8,750mの地点まで戻ってきたが憔悴しきっていた」今考えてみると、彼はその地点まで戻った判断に満足している。彼らは生き残ったからだ。強風が吹き始めた際、彼らは立っていることさえできなかった。「一度口にしたことは、自分が実行できると思った。戻ったのは正しかったのだ」

ネス、マイラー・ルンド、イライアソン、そしてボニントンにより集められたチームはチーム2だった。登頂日の前日である4月20日、イライアソンとマイラー・ルンドは、テントで精神安定剤を半分ずつシェアした。「誰もが標高8,000mという事実を恐れていた」とマイラー・ルンド。酸素ボンベには計器がなく、ラストスパートでイライアソンの頭の中は計算を繰り返していた。一体、どれだけ酸素が残っているのだろうか。4月21日、ヒラリーステップからわずかの地点で立ち止まった。

イライアソンは、帰りは間違いなく酸素が足りなくなると確信していた。「そんなことは気にしていられないぜ。まだ折り返し地点じゃないのだからな」とマイラー・ルンドは言い放ち、先頭を歩いた。1985年4月21日の朝、彼らはスカンジナビア人として初めてエヴェレストの登頂を達成した。クリス・ボニントンも彼らのすぐ後方にいた。
「僕は何を学んだかって?忍耐さ。これまでにはない忍耐というものを身につけたね」とマイラー・ルンド。
頂上に到達した後、彼らはネスを無線で呼び出した。
「俺たちがこのいまいましい山を降りることができるよう、さっさと降りてこいよ」とネスは言った。
「いや、ここまで登ってこいよ」とオッド・イライアソンは応えた。

チームの成功はネスにとってジレンマとなっていた。「あの当時、ヒマラヤへの遠征は一人でも頂上を制覇すれば成功と見なされていたんだ。ボニントンは最初のチームが登頂に成功したので登山を中止したいと考えていた。もし2つ目のチームで事故が起こったら、国際的なクライミング・コミュニティからは何の同情も共感も得られないと思っていたんだ」とイーナン。だが、ネスは違う考えだった。「達成感というものを求めないのなら、わざわざこんな遠征隊を組まないよ」。ネスとアーシェイムは奮闘したが、悪天候により中止せざる得なくなった。

登山を継続するということは、広大な氷瀑を抜けて危険なルートを選択するということでもあった。最終的に、病気になったイーナンを除いた全ての残りのクライマーたちが一斉に頂上を目指して進んだ。後方部には、ベースキャンプでポーカーのレッスンをしていたアメリカ人の大富豪、ディック・バスがいた。「彼は最初にトロフィーを獲得した男の一人だった」とマイラー・ルンド。バスはネスにノルウェー人チームのライセンスと用具を使用するために75,000ドルを支払った。「これがエヴェレストの新しい時代の幕開けだった。彼が我々のラインセンスに金を払ったことはネパール当局にとっては驚くべき出来事だった。彼らはその後、一つの遠征に対してライセンスを売るのではなく、様々な場所のライセンスをチームなどに向け売るようになり、より多くのライセンスの販売を扱うようになったんだ」とアーシェイム。「僕たちは今みたいに商業主義になる前にエヴェレストを体験できたのだからラッキーだった。2005年にネパールにいた時、ベースキャンプに行くことを誘われたんだ。もう行きたくないと断ったけどね」とイーナン。バスを含め全員が登頂に成功した。そして、無事下山することも出来た。バスは七大陸最高峰を最初に制覇したクライマーとなった。ノルウェー人とシェルパたちはベースキャンプからナムチェまで練り歩いた。「その後のパーティーは今や伝説だ。アルネ・ネスは水平方向にドアに突っ込んだ。シェルパたちのダンスは圧巻だった。その後にノルウェー人たちが踊ったダンスは形容し難いものだったけれど」とマイラー・ルンド。シェルパたちもパーティーを開いた。遠征中にユニークな友情がノルウェー人チームとヨーロピアンチームのみならず、ヨーロピアンチームとシェルパの間にも芽生えた。今では建築業を営んでいるオッド・イライアソンは、施設のホストがパーティーの中止を懇願していたことを覚えている。「何がどうなるかを分かっていたのは僕だけのようだった。30〜40人が踊れるほど床は堅牢ではなかった」と彼は語る。「母国に帰ったら、2つの出来事に驚かされた」とイーナン。「一つ目は、フォルネブ空港にはレッドカーペットが敷かれていてブラスバンドが我々を迎えてくれたこと。もう一つは誰もが僕と話したがっていたことさ」。この遠征旅行は最大の関心事だったのだ。「僕は新聞の見出しを今でも覚えているよ。ノルウェー対エヴェレストって書いてあった」とアーシェイム。ネスは著作でこう記している。「オーラヴ王は我々にとって最高の後援者であった。彼は遠征隊の地位を個人の目的達成レベルから国家としての達成というレベルまで引き上げてくれたのだ」と。

誰もがイーナンと話をしたい理由は2つあった。
1. 頂上を制覇できなかったクライマーは彼一人だった。
2. 彼の言葉によれば、「オッド・イライアソンと僕は氷瀑の中の道を補修していた。この時僕はひどくお腹を壊していた。その時突然、轟音が響き始めた。西側の頂上部から大きな雪崩が発生したんだ。僕は氷の塊の後方にお尻をむき出しにしたまま突っ込んだ。僕は、この出来事をベースキャンプ待機していた新聞記者の耳に入っていたことを全く知らなかった。そんなわけで僕が帰国すると、山ではお尻を丸出しのままだったのか、みんなが訊いてくるようになったんだ」。

これが1985年のストーリーだ。四半世紀前の出来事である。
「ヒラリーとテンジンが登頂に成功した年代から僕たちが登頂した時までと同じタイムスパンだね」とアーシェイム。彼は他の人たちの登山における偉業を耳にすると自分自身のエヴェレスト体験を思い出す。
「僅差というものがどれだけ小さいかは解っている。最後の100メートルの地点で、こう思ったことを覚えている。もし、今ミトンを失ったら、どうやってバックパックを下ろしたらいいのかわからないし、予備のミトンをどうやって見つければいいのかもわからない。これは本当に小さなことだけど、そのようなことも含めて、本当に些細なことでも間違った方向に向かってはいけないんだ」とアーシェイムは語る。
ともかく、彼は最後の1.5メートルを登りきり、目的を達成することができた。
「僕は、世界記録を達成しようと思っていた。実は49クローネくらいの凧をイケアで買って山に登ったんだ。世界最高峰の山頂で凧を上げる男の映像を頭に描いていたけど、実際に頂上に着いてみると風が全くなくて飛びやしないんだよね」

そしてSOKKE HALBETERの本当の意味はなんなのか?これはノルウェー北部の表現で「くたばっちまえ!」という意味である。

Norrønaは、1985年のノルウェー人エヴェレスト遠征隊にウェアと用具を提供している。