色彩のトレイル
- アイスランド
- ロイガヴェーグル
- Laugavegur
雪解け水を集めた川を素足で渡る
根本絵梨子と道木マヤの二人が次に向かったは、アイスランド南部に位置する人気のトレイル「ロイガヴェーグル」だった。
前回歩いた北東岸の「ホルンストランディル」が、知る人ぞ知るフィールドだとしたら、こちらはアイスランドを代表するトレイルの王道。「火と氷の国」と呼ばれる島のイメージそのままに、氷河と火山のコントラストを縫うようにトレイルが延びている。
首都レイキャビクからヒッチハイクを重ねて島の南岸を回り込み、スタート地点のソルスモルクに到着したのが8月5日。翌朝から3泊4日のトレッキングが始まった。
トレイル初日、上部を巨大な氷河で覆われた山塊を背にし、道標に従って歩き出す。緑の灌木帯につけられた、平坦な赤土の道をしばらく進むと、やがて緩やかなアップダウンを繰り返すようになる。森を抜けると、道は下りに変わり、その先からは川の流れる音が聞こえてきた。
河原まで降りると、見渡す限り、橋らしきものはなかった。川幅は20〜30mほど。石伝いに渡れるような飛び石も見当たらない。「やっぱりね」。予想通り、徒渉が待ち構えていた。二人は「ホルンストランディル」の後半で体験済みだったのだ。
「徒渉」とは、文字通り、徒歩で川を渡ること。日本の人気山域では、めったに経験することはないが、海外のトレイルでは、ときおり、こうした場面に出くわす。歩いて渡れる程度の流れであれば、わざわざ橋を架ける必要はない。そんな合理的な考え方なのだろうか。たとえ、その川の水がどれほど冷たかろうとも、だ。
登山靴と靴下を脱ぎ、パンツの裾を膝までまくり上げる。これで準備は完了。流れの浅そうな場所を見定め、意を決して素足を水に入れる。瞬間、ふくらはぎまで駆け上がってくる冷たさに息を呑む。
8月初旬とはいえ、氷河から流れ出る雪解け水は凍るようだった。押し返してくる水の力は意外に強く、川底の石で滑らないよう、一步一步、慎重に足を進める。トレッキングポールがなかったら、バランスに苦労しただろう。
対岸にたどり着いた頃には、足の感覚がすっかり失われていた。水際から少し離れ、タオルで足を拭きながら、ゆっくりとマッサージ。再び歩き出すまでには、しばらく時間が必要だった。
トレイルは全体的に平坦か、緩やかな登り基調だが、ときおり小さなアップダウンが現れた。そして下った先には、大小の徒渉が待ち構えている。その繰り返しだった。
いつの間にか、赤土の道は火山性の黒い砂礫へと変わっていた。植生は乏しく、黒い砂丘のような地形の上に、ところどころ苔や草が広がっている。そのモノトーンの風景は印象的で、これまで見てきた世界のどの景色とも違っていた。
振り返ると、遠く氷河を戴いた山の稜線が、光をすかした雲の中に溶け込んでいた。空と大地の境界はあいまいで、そのなかを、砂礫を踏みしめる二人の足音だけが響いていた。
アイスランドは、国土の約11%を氷河が覆い、地面の下では火山活動がいまも息づいている。氷河と火山がこれほど物理的に重なり合って存在する場所は、世界広しといえどもアイスランドだけだという。これが「火と氷の国」と呼ばれるゆえんだ。
トレイル初日は約15kmを8、9時間かけて歩き、山小屋のあるエムストルに到着した。テントサイトは1段下がった小川に沿って点在している。正面には遠く氷河の山を望み、リラックスするには申し分のない、心地よい場所だった。

どこか違う惑星を歩いているみたい
トレイル2日目は湖のあるアルフタヴァトンを目指す約15kmの行程だ。地形図を確認すると、大きな標高差こそないものの、ゆるやかな登り基調が続いている。
この日の景色も、また劇的だった。植物すら姿を消した広大な砂礫の大地を、ただひたすら歩く。前方には印象的なピークが次々と現れたが、どれも距離感がつかめない。スケール感に狂いが生じた異世界に迷い込んだようだった。
「なにか質感が違っていました。ここは本当に地球なの? って。どこか違う惑星を歩いているような感覚で、それは初めての経験。本当に感動してしまったんです」と道木。
この、アイスランド随一の人気トレイルには、世界各国から多くのハイカーを迎え入れている。その大半の人は、標高の高い内陸部のランドマンナロイガルまでバスでアプローチし、3〜4日かけて沿岸部のソルスモルクを目指す。基本的に下り基調で歩くことができるからだ。
トレイルはよく整備されていて歩きやすく、途中の山小屋も適度な間隔で点在している。そのため体力的にも負担が少なく、子ども連れのファミリーの姿も多い。
だが、今回の二人は、あえてその逆コースをたどっている。それはゴール地点となるランドマンナロイガルに温泉が湧き出ているからだった。麓から3日かけて歩ききり、最後に「待ってました」とばかりに温泉に浸かる。歩きが先で、温泉が後。その順番だけは譲れないのだ。
3泊ぶんのテント泊装備と食料を満載にした65Lのバックパックは、それなりの重量になった。そもそも、道木にとってテント泊で山を歩くのは、このアイスランドが初めてだった。それがホルンストランディルで3泊4日、そして今回もすでに2日目を迎え、だいぶこなれてきた感がある。
「最初はたいへんでした。背負い方やストラップの締め方もぜんぜんわからなくて、斜めに傾いたまま歩いていたんです。ネモちゃん(根本)に何度もパッキングを直してもらいながら、『あ、こうやるのか』ってわかるまでには、けっこう時間がかかりましたね」
根本と道木は、アイスランドに旅立つ前年の夏、二人で北アルプスの黒部源流を山小屋泊の3泊4日で歩いている。道木にとって、それが初めての本格的な登山だった。最終日、黒部五郎小屋から新穂高温泉まで、2日ぶんの行程をひと息に歩き通した経験が、大きな糧になったと根本は言う。
「最終日は長いから、途中の山小屋にもう1泊しようかって、マヤミチ(道木)に聞いたんですよ。泊まってゆっくり下る? それとも一気に下山して、帰りに平湯温泉に泊まっていく? って。そしたら『温泉に泊まる!』って(笑)。じゃあ、がんばろうってことで、10時間以上を歩き通したんです。そのときのことがあったから、今回も大丈夫だろうなって」
前回のホルンストランディルでは、ほとんど人に会うことはなかった。だが、ここはさすがにアイスランド随一の人気トレイルである。歩く途中、何人ものハイカーとすれ違った。
ほとんどの人は南下し、二人は北上中。すれ違いざまに言葉を交わしながら、根本はカメラを構え、その笑顔を写真に収めた。トレイルで見た景色はもちろん、出会った人を撮ることも、彼女の作品づくりに欠かせない要素なのだ。
この日も、何度か徒渉を繰り返した。何度やっても、慣れるものではない。それでも、さすがにここでは無理だと思える急流には、しっかりとした橋が架かっていた。
徒渉のたびに、板や丸太を渡した程度の簡素な橋でも架けてくれれば、とつい思ってしまう。だが、それでは増水のたびに簡単に流されてしまうのだろう。この堅牢な橋の造りを見て、ようやくそれを理解した。
トレイル2日目の終着地、アルフタヴァトンのテントサイトは、湖に面した気持ちのいい場所だった。
アイスランドに降り立ってから11日目。ようやく時差ボケも抜け、体がこの土地のリズムに馴染んできた気がする。

これを下りきれば温泉がある
ここからの二日間は、風景も天気も目まぐるしく変わり、まさにロイガヴェーグルのハイライトといえる行程が待ち受けていた。
歩き出して小一時間もしないうちに、トレイルは急斜面の登りに入った。ふと振り返ると、朝に出発したアルフタヴァトンの湖が、はるか遠くに佇んでいる。標高を上げるにつれ、眼下には雄大な景色が広がっていく。まるでトレイル全体が、どこを切り取っても絶景の連続だった。
ハイカーたちは先を急ぐ様子もなく、それぞれが思い思いの場所に腰を下ろし、この壮大な時間を楽しんでいるようだった。
アルフタヴァトンから標高差400mほど登ると、標高900〜1000mに達する。今回の行程中、最も標高の高いエリアだ。豊富に残る万年雪を横目にしながらひたすら登る。真夏とはいえ、ここは北緯63度。北極圏までは、あとわずかである。
翌日、山頂部を覆っていたガスが抜け、これぞロイガヴェーグルという景色が目の前に広がった。淡いピンク、ベージュ、黄土色、グレー、薄緑……。山肌はまるで絵の具を流し込んだように色とりどりに染まっている。硫黄や石英、雲母といった鉱物成分によるもので、これほどカラフルな山肌が連なる光景は、世界的にもきわめて珍しい。
「最後は長い下りだったんですが、この先に温泉がある、と思うと、がんばれました。下っていく途中から、温泉が見えてくるんですよ。あれは本当にうれしかった。緑に始まり、やがて黒い砂地に変わり、最後はカラフルな砂山。進むほどに色彩が移り変わっていく。そのグラデーションがとても印象的で、忘れられないトレッキングになりました」と道木は振り返る。
アイスランドに降り立ってから、2週間が過ぎようとしていた。その間、3泊4日のトレッキングを2回。島の北部と南部を歩いてきた。テントや生活道具一切を背負ってのトレッキングに初挑戦だった道木も、しっかり歩き通すことができた。
「まあ、だめだったら、そこから引き返せばいいやって思っていました」と根本は笑う。
歩き出す前からあれこれ心配をめぐらせるよりも、素直な直感にしたがって体を動かしてみる。海外のロングトレイルを歩き、行き交うハイカーたちを見ていると、あらためてそのことの大切さに気づかされる。自然のなかでは、いつだって「まず一歩を踏み出すこと」が、すべての始まりなのだ。