田平拓也さんは経験豊富なネイチャーガイドとして屋久島を訪れる多くの人に島の魅力を伝え、同時に世界自然遺産の島を隅々まで知悉した撮影コーディネーター兼映像カメラマンとして映像制作業界からの期待を一手に担ってきた。豊かな自然のなかで生き生きと暮らし、自身と家族のライフスタイルを着々と積み上げてきた田平さんのキーワードは、「自然」「人間」そして「アート」である。
田平 拓也 (たびら・たくや)
1976年、長崎県生まれ。大学卒業後に屋久島で林業に携わり、その後8年間のエコツアーガイド経験を経て、2007年、屋久島ツアーガイド「旅樂 (たびら)」を設立。ネイチャーガイドであると同時に、屋久島の映像を撮影する映像カメラマンとして活動中。
屋久島にこの人ありと知られる田平拓也さんだが、もともとは長崎県の生まれだ。教師を目指した大学時代には、子どもたちに自然体験させるサークルを立ち上げたり、同時に美術部に所属して環境アートなどに触れていた。そんななか、インドやニュージーランドへの長期旅行を経験したことで、心のなかにふつふつと別の感情が芽生えるようになる。それは学校という決まり切った枠組に対する小さな違和感のようなものだった。
それからの田平さんはこう考えた。自分が欲していたのは必ずしも教師になることではなく、人と自然に関連するなにかかもしれない。ならば、まずはどこか自然のなかで暮らしながら、自然と直接関わるような仕事に就けないだろうかと。そんなときにふと耳にしたのが、屋久島の木樵 (きこり)仕事だった。
屋久島を覆う天然杉の伐採は、古くは豊臣秀吉の時代から始まっている。江戸時代には薩摩藩の財政を支える重要な産業として本格化し、島のほぼ全域までに及んだという。山が急峻なために川の流れを利用することができず、切った杉はその場で平木に製材され、人が背負って山から降ろしたという。
また、薩摩藩は盗伐を防ぐためにノコギリの使用を禁じていたこともあり、年輪がゆがんでナタでは製材できない巨木は切らずに残され、結果的にそれがマザーツリーとなって森を再生する役割を担った。それらが縄文杉に代表される樹齢1000年を越える原始の巨木である。
1993年に世界自然遺産に登録されると屋久杉の伐採は全面的に禁止され、以後の屋久島の林業は「土埋木 (どまいぼく)」と呼ばれる搬出されず山中に放置された古い倒木や切り株などを山から降ろす仕事に切り替わった。現在屋久杉の工芸品として利用されているのはそうした木材である。
大学卒業後に単身屋久島に渡った田平さんが弟子入りしたのも、そうした土埋木林業を営む親方の元だった。
「『大学を卒業したら屋久島に渡って木樵になる』と言うと、まわりの友人たちは笑ってくれました。それはそうですよね。プリミティブな島の暮らしにも漠然とした憧れがありました。魚を釣ったり作物をこしらえたりして、物々交換に近いかたちで人々が交流しているイメージ。まあ、よくわかっていなかったってことですね」
親方の元で土埋木の搬出仕事を覚えた田平さんは、翌年には一念発起して自身の林業会社を立ち上げ、島の森林組合に日参した。だが、島の出でもない23歳の若造に満足な仕事が回ってくるはずもなく、借金だけが増えていく困窮の日々。しまいには月1万円の家賃を払うことすら厳しくなり、廃屋やコンテナを転々としたという。
「一番ひどかったときは、知人の家の犬小屋で暮らしました。以前に飼われていたのは大型犬だったようで、いちおう僕が横になれる広さと、座れる高さはあったんですよ。そこに母屋から延長コードを引っ張ってきて炊飯器を置いて寝泊まりしたんです。とはいっても犬小屋ですからね。さすがに続かず、次に橋の下で見つけた廃屋に引っ越しました。そうしたらある日、誰かが不法投棄したらしく、橋の上から鹿の死骸が落ちてきたんですよ。犬小屋で寝たり、空から鹿の死骸が降ってくる家に住むとはね。なんて人生だ! って思いましたよ」
その後、身も心も傷心の田平さんは会社をたたんで島から離れるが、ほどなく屋久島に戻って先輩ガイドに付いて見習いガイドを始める。このときすでに自然に恵まれた屋久島の環境は、田平さんにとって欠かせないものになっていたのだった。
当時はまだ島内でもガイドは30人ほどだったが、年々増え続ける来島者に応えるようにエコツアーが広まっていった時期だった。ほどなく、田平さんを指名するリピーターが現れはじめ、見習いガイドながら評判は高まっていく。それには林業経験が少なからず役立ったという。
「毎日森を歩いてその変化を気にかけ、森に対する理解度が進むにつれ、お客さんに伝える内容もどんどん深まります。その点、山をよく知る林業の仕事から学んだことは少なくありません。また、林業ではトレイル以外にも足を踏み入れますし、一般の人が入山を規制された現場にも立ち入ることができるわけです。そうして山の地形を覚え、道なき道を歩くことでガイドとしての嗅覚や危機管理能力も高まったのだと思います」
見習いガイドを始めた3年目には3つのガイド会社から仕事を依頼される人気のエコツアーガイドになった田平さん。その8年間の経験をベースに、屋久島ガイドオフィス「旅樂 (たびら)」を設立したのが2007年。そのとき田平さんは31歳だった。
Takuya Tabira
@tabirafactory
http://www.tabira.biz
-Photo by
Yosuke Kashiwakura
@yosuke_kashiwakura
-Text by
Chikara Terakura
@c.terakura